犀水千字文 楷書
千字文の『まえがき』には犀水先生の理念が伝わります。ここに全文を紹介します。 この千字文は1970年1月に初版が㈱日本習字普及協会から出版され1993年12月の第21版で 絶版になって10年が経過。神田の古書を尋ねてみたが入手不可能であった。 前にも述べたが、日本書道教育学会、三多軒に犀水千字文が販売されている楷書編は還暦を記念して揮毫した作品で、犀水先生が意にみたないと言われた旧版のものです。 晩年に揮毫した。完成度の高い千字文(下写真参照)は日本書道教育学会では版権がなく、『まぼろしの版』となっている。私は昭和45年1月出版の楷書千字文を習った。 ここに73歳の時に井沢・無相庵にこもり揮毫した。10年前に絶版本となった楷書編を紹介します。 手元にお持ちの『三多軒販売の犀水千字文楷書』と比較して鑑賞下さい。
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まえがき | ||||||||||||
| 最近わが国の書道は展覧会芸術に急傾斜して書も一つのショウに化した。広い会場で人目を引くためには 自然、少数の大文字を書くようになり、それも奇抜な構成や、極端なデフォルメを事とするようになった。 そのため文字性は破壊され、筆はいためつけられて、いわゆる法書(手本とする書)がほとんど影をひそめて しまった。 書が単に展覧会目的だけで学習されるということは一つの変則である。 学習はむしろ他人のためにする ものでなく、己れのためにするものでなくてはならぬ。 元来書は実用の芸術で文字性を無視しては成り立ち得ない。又東洋では書は心画として人間形成に大きな 役割を演じてきた。しかし今日の書道ほど鍛錬をいとい、過程を軽んじて結果を求め、偶然と感覚的効果を 追って文字性を破壊した時代は過去には少なかったようである。これも展覧会芸術という変則な書道の抬頭 によるものかもしれぬ。 われわれは書道本来の学習にかえってもっと真面目に真剣に正しい文字の習得からスタートして各体に わたる書道の基礎的な修練を積みたいものである。 このことは絵画におけるデッサンの尊重と同様である。 こうした学書の要求をみたしてくれたものが千字文の学習である。 千字文は四言の誌句二百五十句からなり一字の重複もなく、易より難に宇宙の大より微物の末にいたるまで 見事に歌いあげている。 しかもその七割以上が今日の教育漢字、常用漢字と一致することを思えば今日なお、教育書道の生きた テキストであることを忘れてはならぬ。もしこの千字文三体に習熟するならば我々の日常の書写に事かかぬ ばかりでなく、芸術的表現のデッサンにおいても十分であろう。 私は二十数年前還暦を記念につたない千字文三種を世に公にしたが、それが意外にも世に用いられて、 版を重ねること十数回に及び、次第に意にみたないものになったので、昭和四十四年夏、寸暇をさいて 軽井沢・無相庵にこもり三週間にして書き上げたものが、この犀水千字文楷・行・草三体である。 楷書偏は、書写体としての正確を期し、必ずしも前回のごとく新字体によらず、一字の構成、用筆の変化を 唐褚法に習った。
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孟夏書 犀水 |
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褚法 ![]() 線は勁嶮・剛強と評され、50代における『房玄齢碑』や『雁塔聖教序』では躍動的で流麗な作風に一変した。 遂良の書は結体閑雅で悠揚迫らず、変化の多様と情趣の豊かな点では初唐の三大家の中でも最も優れている。 |
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