月刊競書雑誌『不二』9月号 臨書課題と参考手本
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丹羽海鶴(にわ かいかく)
 ウィキペディア参照
、文久3年、岐阜県生まれの書家。本名は正長、幼名は金吾、字は寿郷海鶴雅号(がごう)。晩年には落款に海寉とも書いた。日下部鳴に師事。
《落款(らっかん)は、落成款識(らくせいかんし)の略語。書画を作成した際に製作時や記名を書き付けたもの、またその行為を言う。
 業績
 明治から大正にかけて活躍した書家で、鄭道昭や初唐の楷書を基調とした海鶴の書風は海鶴流と称され、一世を風靡した。
また、書道教育界に影響力を持ち、習字教科書の書風を改革して近代書道教育の発展に貢献した。
 略歴
 

文久3年(1863年)岐阜県恵那郡田瀬村(現中津川市田瀬)に庄屋丹羽五兵衛の4男として生まれる。幼少の頃より書に親しみ、飛騨の高山小学校で
教鞭を執りながら書道の研究を続けた。明治21年(1888年)8月、26歳のとき日下部鳴鶴の遊歴に会い、その筆跡と見識の高さに敬服し入門を願い出た。

以後、通信教育で指導を受けたが、のち上京し、内弟子として7年、朝夕その座右に侍して薫陶を受け、鳴鶴に書の才能を認められた。
はじめ六朝風を慕ったが、のち晋唐風(東晋の王羲之や初唐の三大家を中心とした書風を指す。)を研究し、特に褚遂良をよく習い、『孟法師碑』を髣髴させる作品を
残している。
海鶴の書風は書道教育界に受け入れられ、学習院教官、東京高等師範学校講師、文部省教員検定試験委員(習字科)などを歴任し、
教育界への影響力は絶大であった。

昭和初期までの習字教科書の書風は顔法(顔真卿の筆法)であったが、海鶴は書道教育の基準を初唐の楷書におくことを提唱し、その門下である
鈴木翠軒が国定四期(1933年 - 1940年)の習字教科書を執筆するに至った。翠軒は海鶴よりの伝承を忠実に墨守した。他に田代秋鶴、田中海庵、
水島望鶴、井上桂園、藤原鶴来など数多くの門弟を輩出し、昭和6年(1931年)67歳で没した。

日下部鳴鶴は代表作「大久保公神道碑」を揮毫するにあたり、その跋文を門人である近藤雪竹・丹羽海鶴・比田井天来の三人に書かせたが、唯一
日下部鳴鶴の目に適ったのが丹羽海鶴(1863-1931)の揮毫によるものであった。
 当時、丹羽海鶴の門人であった鈴木翠軒は『書人翠軒』(二玄社刊)の中で彼の細楷を「良寛の細楷と並び称せられても良いくらいな緊った品の
良いもの」と評している。

丹羽海鶴10~6級 臨書課題      臨書とは


跋文の一部
 
9月号 
月刊競書雑誌『不二』課題


一位を贈られる大久保公

中本 白洲臨


習い方 

①線質は筆をよく起こし、鋼鉄線を曲げるような線質
②波法、三折法の手法
③大、久の左払いは最後は真横に大きく抜く    


跋文
右大臣・従一位を贈られる大久保公の神道碑は、鳴鶴日下部先生、勅を奉じて(天子の命令、尊貴の者からの命令。)書す。これ、その原本なり。
碑は銅を持って製し、四面に字をエる。その法は、まず泰西の撮影術を用いて、原本を映取し、のばさず
縮めず、差(たがい)シュショもなし。ここにおいて就(つ)きてもって木にいり、しかる後に、カタを作り鋳就(な)る。ここをもって原本には一つの
損傷なし。先生、これを官に請ひて
還賜さるるを得たり。・・・・ 略
  


鄭文公下碑・鄭道昭1~5級課題 (昇段課題)
この拓本は清雅堂発行 鄭文公下碑参照 白洲書道会の溝口さん提供
 
2つの四の表現が大切

鄭文公下碑・鄭道昭 、白洲書道教室 電話03-5487-0717
習い方
『四』の一画目は起筆は蔵筆で紙背に達するような気持で短く直角に書く。、5画目は一画目の横から30度くらいの角度で一・二・三のリズムでうねりを表現。懐にゆったりとした間を作る様にまとめます。



特長

・円筆(円勢)
・横画にみられる独特なうねり(粘りの表現)
・丸みを持たせた転折(ゆったり、大らかな感じ)


一字目の『四』の拡大
鄭文公下碑・鄭道昭の部分拡大・白洲書道教室
この拓本は清雅堂発行 鄭文公下碑参照 白洲書道会の溝口さん提供

中本 白洲臨
中本白洲臨書 鄭道昭

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