大久保公神道碑 見学会  4月11日
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日下部 鳴鶴 (くさかべ めいかく、本名は東作




中林梧竹、巌谷一六と共に明治の三筆と呼ばれる近代書道の確立者の一人である。

中国、特に六朝書の影響を受けた力強い筆跡が特徴でありそれまでの和様から唐様に日本の書法の基準を作り変えた。加えて数多くの弟子を育成、現在でも彼の流派を受け継ぐ書道家は極めて多い。揮毫した碑は全国に数多く見られる。中でも大久保公神道碑は鳴鶴の最高傑作といわれる。1838年、彦根藩士・田中惣右衛門の次男として生まれる。1859年、22歳の時に同じ彦根藩士・日下部三郎右衛門の養子となる。鳴鶴は、天保九年に彦根藩士の子として生まれた。父三郎衛門は、桜田門外の変、万延元年3月3日、江戸城桜田門外で水戸17名・薩摩の浪士1名が大老井伊直弼(いい・なおすけ)を殺害した事件。に大老井伊直弼の供頭役(ともがしら)に任じていて亡くなった。鳴鶴自身も槍術の名手であった。しかし1860年、藩主の井伊直弼が桜田門外で暗殺されたため禄は大幅に減り生活は困窮したが上京し書道に専念する決意をしている。維新後、新政府が成立すると徴用され太政官に勤める。内閣大書記官となるが当時仕えていた大久保利通が紀尾井坂の変で暗殺されたことを機に退官し書道に専念する。特定の人物に師事してはいない。しかし20代の時には、既に亡くなっていた貫名菘翁の書に傾倒しており、40代の時には、来日していた楊守敬のもとで碑学、六朝書、篆隷の研究を行っている。その後は中国書法の研究をすすめ六朝書道を基礎に独自の書風を確立し多くの弟子を育てる。また中国に渡航し碑文研究を深めると同時に呉昌碩などの文人と交流し、「東海の書聖」と称されたといわれている。その一方で碑文の揮毫や雑誌の刊行、名跡研究などに努めた。1922年、85歳でその生涯を閉じる。

日下部鳴鶴は、楷書は鄭道昭、草書は書譜、隷書は張遷碑などをみずから熟し、人にもすすめて、伝統の和様感覚とは別途の新感覚の書風を確立して、″鳴鶴流″として一世を風靡した。特に鄭羲下碑や高貞碑をベースとした楷書は、新興国家の意気軒昂の風潮にぴったりしたので、建碑の文字としても盛んに持て囃された。その最高傑作が、いまも東京の青山墓地にある大久保公神道碑である。楊守敬から日下部鳴鶴らに伝えられた廻腕法は、懸腕法の一種で、四本指を前方にかける四指斉頭(ししせいとうほう法で、これを鳴鶴は神田温恭堂製の羊毫の超長鋒筆「長鋒快劔」、「一掃千軍」でみごとに熟したから、スケールの大きな書が生まれたのであった。

この建碑は勅命によって行われたもので、伏見貞愛親王が篆額を題し、本文は重野成齋が撰文、書は大久保利通と縁が深く、当時、第一人者といわれた日下部鳴鶴に勅命が下ったのである。鳴鶴は、それまでにも数多の碑を書いているが、勅命かつ恩顧を被った大久保公の神道碑であったから加賀山中温泉の大倉財閥の別荘を半年にわたって借りうけ、斎戒沐浴して取り組んだ


伏見貞愛親王 (ふしみのみや さだなるしんのう、 安政 5 428 1858 69 - 1923 大正 12年) 24 )は、 日本 皇族 陸軍 軍人  
重野成齋   (しげの せいさい)薩摩藩儒、東京帝国大学教授、文学博士等
尊王攘夷を捨てて開国論者となる。しかし、藩の門閥家らに陥れられ、切腹させられるところを、藩主・島津斉彬が成斎の才を惜しみ鬼界ヶ島に流罪とした。流罪中、島の蔵書家・鼎氏の膨大な蔵書をすべて読み込んで学問を磨き、あとで流されてきた西郷隆盛とも交流した。
大倉財閥  おおくらざいばつ)は、大倉喜八郎によって設立された日本の中堅財閥である。 大倉喜八郎は天保八年(1837年)に越後国新発田に生まれ、18歳で江戸に出た。21歳で独立、大倉屋という乾物店を開き、その後鉄砲屋を開業。その後貿易事業へと乗り出した彼は、大久保利通、伊藤博文、山県有朋やまがた ありとも)らとの親交を深め、一代にして大財閥を築き上げた。

 

 斎戒沐浴


 「斎」は酒や肉をたって心の汚れを清めること。「戒」は身の過ちを戒めること。「沐」は髪を洗い、「浴」は体を洗うこと。